人生とは失っていくことなのだろうか。映画「四月の永い夢」に寄せて。
最初、全然違う長い文章を書いたんだけど、
読み返すと心底気持ち悪かったので、消して書き直しました。
5月12日に中川龍太郎監督の「四月の永い夢」という映画が公開されました。
わたしは監督の2作前の「愛の小さな歴史」から監督に陶酔しきっておりまして、
長編、中編共にソフト化されてるものは全部見てますし、
ご縁があって神戸で出会った後、ちょくちょくと連絡を取ったり
東京では飲みに連れていただいたこともあるくらいよくしていただいてて。
色々と冷静さを失った部分はあるかと思いますが、本当に傑作でした。
普段映画を人に勧めたりしないけど、とりあえず「この人なら見に行ってくれそう」
って人10人くらいにLINEで「今すぐ四月の永い夢を見にいくように!」と突然連絡したほどです。
そして今もこうやって文章を書いている。
本当に気持ち悪いと思います。
せっかくなので中川監督のファンらしく、
「四月の永い夢」の良さを「走れ、絶望に追いつかれない速さ」を比較対象に出して
文章を紡いでいこうと思います。
前提としてこの2作には共通したテーマがあります。
それは”大事な人の死”
これは監督自身、学生時代の親友を亡くしたという経験から来たもの。
前作「走れ、絶望に追いつかれない速さで」は主演太賀くんを通して、自分自身の内向きでギザギザした葛藤や悔恨といった感情を“解放”する物語だったとわたしは感じています。
それでは今作「四月の長い夢」ではどうだったでしょうか。
それに対してわたしの答え。
「四月の永い夢」は”肯定”の物語だと思います
無理に忘れなくても、乗り越えようとしなくてもいいんだよ、って。
言ってくれてるような気がしました
「走れ」は自分自身の名前をつけることすらできない
葛藤やもどかしさといった感情に気づくこと=内向きのお話、に対して
「四月の永い夢」はそんな自分を認めてくれる人がいること、それに気づくことで
自分自身を見つけること=外へ向いたお話なんじゃないかなあ。
もちろん「走れ」でも第三者の介在はあるんだけど、
結構その部分はないがしろになってる感があって。
今回の「四月の永い夢」に出てくる染物工場で働く青年や、元教え子、元恋人のお母さんなんかは
ちゃんと主人公に向き合ってくれてて、ちゃんとそれに主人公が応えようとしている。
「走れ」の主人公に投影する荒々しいまでの衝動が監督自身の若さ故だとすれば、
「四月の永い夢」の主人公に対する監督の目線は引きのロングショットではあるんだけど優しいんですよね。もはや円熟の域というか。笑
こう前作と今作を比べて見るとやはりこの2作は対になってると思ってて。
どっちが好きかと言われると人によって結構分かれると思うんですよね。
わたしは「走れ」も劇場で3回見てるほど好きだけど「四月の永い夢」の方がもっと好きです。
ネタバレになるからあんまり言えないけど90分超の上映時間で4回泣きました。
もうどうしようかって感じです。
割とすぐ泣く方だけど、ファーストカットで涙腺震えてちょっと自分で笑っちゃいました。
なんだろう。
人生は失っていくもの、だなんてそんな年寄りくさいこと、
この歳で言いたくないよな。まだ24歳だし。
でもそのセリフがすごい響いたのは事実で。
失敗続きでどうしようもなく雁字搦めで辛い日々が続いて来たけど
それでもいっか、って笑って空を見上げれそう、明日は。
見終わって家に帰るとき思いました。
そんな生き方も悪くないのかもな、
この映画が肯定してくれる気がした。